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asagao’s blog

日記と雑記、読書メモは個人的感想でネタバレ含みます。

モンテ・クリスト伯 読書メモ31

モンテクリスト伯 読書メモ

埋められたベネデット。

ベルツッチオの昔語り。

次々と明らかになるヴィルフォールの過去と、不思議な繋がりをみせるカドルッス。

ヴィルフォールの子供であるベネデットも、宿屋のカドルッスも、血なまぐさい事件と共に姿を隠したことが語られる。


とにかく凄惨な章だ。ベネデットの恩知らずな振る舞い。嫌悪感を禁じ得ない。これはデュマが明らかに狙っている書き方だ。

カドルッスとカルコントのくだりも吐き気がする。
殺人を仄めかした者の末路。
目撃者のベルツッチオは災難だ。

興味深いのは、物語の中で繰返し描かれる
「罪を犯す者」と「罪をそそのかす者」。
そして、「罪を知りながら傍観する者」。

この三者で最も罪の重い者は誰かということ。

答えは終盤に出てくるのだか、デュマの描き方は上手い。

そしてそれらの事件の所々にモンテ・クリスト伯の陰。

つまり、脱獄から40歳までの期間に、綿密な計画を練りいかに下調べをしていたのかが、間接的に語られている。

誰がどこで何をしていたか。
関わる人間が誰で、過去に何があったのか。
何が強みで何が弱味なのか。
どこを握られれば、破滅へと転げ落ちて行くのか。
蛇のような執念、復讐の刃と化して日々を送るモンテ・クリスト伯の姿。



自分の敵に何もかも知られる恐怖。
これほど恐ろしい事があるだろうか。

目の前の人物が何を目的として、自分に接触し語りかけるのかを知らずに受け入れてしまう愚かさ。
つまり、ダンテスはもう戻ってこないという思い込みと油断が身の破滅をもたらす。

さながら獅子の前で気づかずに遊ぶ獲物のようだ。



戦いにおいて、相手を知ることは勝利の近道だ。
相手を知ろうとしないのは敗北の一因だ。


さて今回の心に残った一文。
「悪いやつというものは、なかなか死なないものだからな。神様は、復讐の道具になさるため、そうした人間を保護しておいでのようだからな。」※1

憎まれっ子世にはばかるともいうが、何故か悪人は長生きで才子は多病、佳人は薄命となる不思議。
世界共通のこの傾向。

そんな理不尽な世の中にデュマは囁く。

復讐の道具になさるためだよと。

「ああ、そうなのか」と、思わせる言葉だ。
また、簡略な大衆的発言だとおもう。
悪人はその悪事の復讐、つまり制裁を受ける為に生きているのだと納得する。


以前デュマの死刑にたいする価値観が、モンテ・クリスト伯の口を借りて語られている。

「死による償いでは、なまやさしい。
罪は生きて償え。
罪の報いを生きて苦しめ。」と言うのは、ある意味画期的ではないだろうか。

デュマにとって、また多くの人にとって死は安息、または苦しみの終りを意味しており、それは罪からの逃亡でしかないという認識。

これは面白い。

私は死にたいする考察は少し違うのだか、罪を生きて償う事には大賛成なのだ。

死が最大の「罰」足り得るのか。それは誰にも分からない。死が精神の消滅であるなら、それこそ逃亡だと思う。
誰もが好き勝手に生きて、どうにもならなくなったら死んでおしまいというのは、理性ある人間として恥ずべき生き方ではないだろうか。
実際そういう人生を生きる人間も多い。
神や仏もあるものかという現代では、そのような刹那主義的生き方をする人間が増えたようにも思える。


だから目に見える生存の時間で罪を償うべきだと思う。


また、逆に考えれば、このようにも捉えられる。

「いかなる罪を犯そうとも、罪を償うために人は生きるべきだ」と。
だから、私は自殺も死刑も否定する。

人を殺したなら、人の命を救う行いをしてから死ぬべきだ。
考えてみてほしい、今、福島原発で命をかけて働く人がいるというのに、殺人犯は安全な刑務所で死刑を待っているというのは、おかしな事ではないだろうか。

「死んでお詫び」は意味がない。

死ぬことは、自分の犯した罪から逃げることだ。
もっとも卑怯な事なのだと知るべきだ。

罪を償う方法は、今のところ、善行を行うか自身が人生における苦悩を受け止める事しか無いように思われる。


罪を償いたいなら「生きろ」。
罪を償うために「生きさせろ」。
そう、声を大にして叫びたい。

簡単に殺すなと。
人の役に立つ何かを為せ、そう思う。

この世界に人を救うために為すべきことは、沢山あるのだから。

※1アレクサンドル・デュマ作、山内義夫訳、モンテ・クリスト伯三、岩波書店